体が硬いどっとこむ

佐野事変とオリジナリティについての誤解

8月
17

今、世間を騒がせているオリンピックのエンブレムについては別にそのままでもいいと個人的には思う。
サントリーがお金すごい出してるかは知らん。だから、このことはよくわからん。

だが、社会のなかのデザイン業を考えた場合、デザイナーってオリジナルなものを作ることが最重要課題じゃないことのほうが多いと思う。
佐野研二郎さんの件の影響でそこが逆向きに誇張されないようになればいいけど・・・。
どうやら佐野さん自身は意図せず、こうなってしまっているので、作者へのリスペクトやオマージュ以前の問題で渦中の人になってしまったとして、デザイン業界がとても小さく社会に対して閉ざされた業界という見方が広まっているようです。実際に最近の僕はそう感じるところもある。軽さというか表面上というか。それは自分ものっかてるところもあるし、商売で考えるとそっちのほうが楽だ。

他方、ポストインターネットと言われてから、皆がオリジナルなモノを作れると錯覚しているのかもしれないけど、写真を撮る機械以外はオリジナルなものを作る方法と著作の価値は100年前からかわっていないと思います。確かに表現の幅は広がり、目立ちたい人は目立ちやすくなった。そのかわりに衰退したものもあるし、スピードが最重要課題で、それを求められてそれに答えようとするクリエイティブも正しい。

だが、思い返してみれば、オリジナルなものってすごく価値あるはずです。
何かの影響を受けて作られたものはオリジナルなモノなのか、そうでないのかでいえば、それは個人の目や耳を通し脳が表現したものなので、つまり個人というオリジナルなものが表現した何かです。それがアートの本質であり、デザインとアートに境界や違いがあるとすれば、デザインはそのアートのわかりやすいアーティスティックな部分の一部だけを手法として使う。
それがアートワークといわれ、それを導くのはアートディレクションという仕事です。
デザインの仕事の実務はアートと重なる部分が多少あるにせよ、アートそのものとは違う。
それどころか世の中が複雑になったのと同じく、デザインの仕事の領域はより広くなって、複雑になりました。故にどちかといえば、社会に影響を与えるべき仕事です。それがなぜ閉ざされた業界なになってしまっているのか?
まったく原因がよくわからないというか、わかってるけど間違えをただす人も少ないというか・・・。

個人的にはアートは昔から閉ざされた世界でいいと思っているし、それを許さない理由もありません。また、デザイナーとアーティストを同義だと思っている人も、まだまだかなり多いです。
それどころかデザインとアートに境界なんてないというデザイナーもいます。
しかし、僕はデザイナーとアーティストという呼び方が違うわけだから、その意味はやっぱりちがうなあと思います。

社会に影響を及ぼさない仕事って実は世の中にないのです。
デザイナーっとはアーティストやアートから影響をかなり受けている部類の職業の人たちですが、社会人であることが条件です。やはり、ほかの業種と同じで能力は個人個人あります。
アーティストはその条件がまったく満たされなくても、アーティストであることを許されます。
両方できる人もいるかもしれないけど、浅いかすごい能力のある人かどっちかです。

なので、なんでこんなこと何年もやってるのと世の中から思われても、衝動でやり続けてる人の作るものや奇跡的に生まれるオリジナリティはそんなに簡単に手に入れられないものであるということではないかな。

平和について

7月
02

そこそこに忙殺されて、仕事の帰り道に虫がないていた。

僕が小さい時、大人たちは日本には四季があるからいいと言っていたのを思い出した。
「あー、四季って嫌だな〜。梅雨はジメジメするし、雨でびしょびしょになるし。一年中、春だったらいいなになぁ」
と思ったものだ。

虫の声とか四季のわびさびみたいなものをしばらく感じる気持ちもなかった。
今夜は春を終えて、梅雨の夜に虫の声をきくと、「夏がきたな」と感じるようになっていることに気づいた。

四季に感銘するなんて自分も歳をとったと思うと同時に
こんな気持ちは日本人全員に染みついていて、
自分も日本人としては遺伝子に刷り込まれているん感覚があるのだなと思う。
短歌や俳句みたいなものは、今もサブカルチャーにつながる情緒を表現するものだし、
なるほどオールド日本人の感覚というのはモダンで普遍だとも気づく。

今日は総理大臣が閣議決定された集団的自衛権について演説した。
大小さまざまな平和と殺し合いは世界中で繰り返されているにもかかわらず、
平和とは平和のことを考えなくなることだったのかもしれない。
ましてや殺し合いのことなんか忘れてしまっている。
どこからどこまでを平和ととらえ、殺し合いととらえるかは、
四季の情緒と同じぐらい曖昧で、同じだ。

本質は殺伐とした世界に生きたくない。ただ、それだけだ。

繰り返される時間の無駄

7月
22

体験に基づく、誰ということはないふわったした概念です。

日本の社会構造はそういった効率だけではない
概念で安定した産業活動を保っていた経緯があります。
しかし構造そのものは安定を目指しているわけだから、
根底にある思想 が変化を求めるニーズと真逆にあります。

大概の場合、ボスなる人物はこの構造を理解していないわけではなく、
人間の成長のためとか組織の均衡というお題目で変化に消極的です。

時代が急激に動こうとしているときは、
ボスなる人物達は極めて変化するためのアクションを意識しなければいけないと思います。
外部や部下から提案される資料から過去の数字と機能の提案があるとすれば、
数字より機能を優先するべきです。
なぜならば、ユーザ―ビリティーというのは機能があってはじめて数字にあらわれます。
前提がちがう数字なんて参考にしても「ある」とき「ない」ときの「ない」ときの意味しかありません。
つまり、それまで「なかった」ことなのです。
仮説以下のことについて、何時間も何日も議論する時間がもったいないです。

タブーと思想

6月
29

10%の消費増税法案が可決され、大飯原発の再稼働が決定しました。
このようなとき、欧米ではデモや抗議が起こると聞きます。

日本の場合はいつ頃からか、政治や宗教を人前でに口にするのはタブー。
ビジネスマンのたしなみみたいになっています。

それはよくないというか、日本のサラリーマンが世代を超えて長きにわたり、
社畜教育されてしまった結果かもしれません。
それが大多数の意見として社会を構成してしまった。
この”たしなみ”が今日の日本の政治の堕落の原因のひとつではないでしょうか?

この場合の”たしなみ”とは、「慣習への節度」ということなんですが、
それが政治への無関心や社会の無気力を助長してきたのではないかと思います。
ビジネスマンの営業のたしなみであって、社会人のたしなみではないと思います。
そもそも、たしなむ必要ないし。

特にクリエイターやミュージシャンは
もっと思想や主義をもって活動するべき時代になったと思います。