ある時代、奇特だった「ミニマル」くんが危篤あるいは既得に関する駄文

情報や形の量を少なくする、いわゆるひき算のデザインというのは、 どう頑張っても「無」にはなれない。そして「駄」であってはならない。 しかし誰も「無」でありたいとは思っていない。

考えてみれば、ミニマル思想のプロダクトの表現は 随分と先進性というより、アップルの2回目の成功以降はオーソドックスになった。 昔からあんまり好きじゃなかったけど、私は、 これはもはや追求するべきものではない と、思い始めている。

20世紀からこれまでのところの流れを見ていると、 どうも俳句や禅の「わびさび」というものとの本質的な共通点は今のところは存在しない。 ある意味でサンセリフ体と親和性が高い様式でしかないのではないか? はたまた「余計な要素を追加するな」 という、 依頼主や世間へのプロパガンダにも似た警告ではないか?

優れたアートは否定や肯定もせず、意味すら持たないと思うが、 たぶん「ミニマル」は、「無」になれない以上はアートの延長線上にはなるわけがないのであろう。 それらはいったいなんなのだろうか?結局、存在を強調するだけのフィルターなんじゃないのか? 引き続き様子を見てみたいと思うが、そこには確実に私が愛する情緒という余計なものはない。