佐野事変とオリジナリティについての誤解

今、世間を騒がせているオリンピックのエンブレムについては別にそのままでもいいと個人的には思う。 サントリーがお金すごい出してるかは知らん。だから、このことはよくわからん。

だが、社会のなかのデザイン業を考えた場合、デザイナーってオリジナルなものを作ることが最重要課題じゃないことのほうが多いと思う。 佐野研二郎さんの件の影響でそこが逆向きに誇張されないようになればいいけど・・・。 どうやら佐野さん自身は意図せず、こうなってしまっているので、作者へのリスペクトやオマージュ以前の問題で渦中の人になってしまったとして、デザイン業界がとても小さく社会に対して閉ざされた業界という見方が広まっているようです。実際に最近の僕はそう感じるところもある。軽さというか表面上というか。それは自分ものっかてるところもあるし、商売で考えるとそっちのほうが楽だ。

他方、ポストインターネットと言われてから、皆がオリジナルなモノを作れると錯覚しているのかもしれないけど、写真を撮る機械以外はオリジナルなものを作る方法と著作の価値は100年前からかわっていないと思います。確かに表現の幅は広がり、目立ちたい人は目立ちやすくなった。そのかわりに衰退したものもあるし、スピードが最重要課題で、それを求められてそれに答えようとするクリエイティブも正しい。

だが、思い返してみれば、オリジナルなものってすごく価値あるはずです。 何かの影響を受けて作られたものはオリジナルなモノなのか、そうでないのかでいえば、それは個人の目や耳を通し脳が表現したものなので、つまり個人というオリジナルなものが表現した何かです。それがアートの本質であり、デザインとアートに境界や違いがあるとすれば、デザインはそのアートのわかりやすいアーティスティックな部分の一部だけを手法として使う。 それがアートワークといわれ、それを導くのはアートディレクションという仕事です。 デザインの仕事の実務はアートと重なる部分が多少あるにせよ、アートそのものとは違う。 それどころか世の中が複雑になったのと同じく、デザインの仕事の領域はより広くなって、複雑になりました。故にどちかといえば、社会に影響を与えるべき仕事です。それがなぜ閉ざされた業界なになってしまっているのか? まったく原因がよくわからないというか、わかってるけど間違えをただす人も少ないというか・・・。

個人的にはアートは昔から閉ざされた世界でいいと思っているし、それを許さない理由もありません。また、デザイナーとアーティストを同義だと思っている人も、まだまだかなり多いです。 それどころかデザインとアートに境界なんてないというデザイナーもいます。 しかし、僕はデザイナーとアーティストという呼び方が違うわけだから、その意味はやっぱりちがうなあと思います。

社会に影響を及ぼさない仕事って実は世の中にないのです。 デザイナーっとはアーティストやアートから影響をかなり受けている部類の職業の人たちですが、社会人であることが条件です。やはり、ほかの業種と同じで能力は個人個人あります。 アーティストはその条件がまったく満たされなくても、アーティストであることを許されます。 両方できる人もいるかもしれないけど、浅いかすごい能力のある人かどっちかです。

なので、なんでこんなこと何年もやってるのと世の中から思われても、衝動でやり続けてる人の作るものや奇跡的に生まれるオリジナリティはそんなに簡単に手に入れられないものであるということではないかな。